夏。じりじりと照りつける太陽を背中に恨みつつ歩を進める。子どもの夏、大人の夏。頭が眩むような暑さの中で、思考は時間の感覚を曲げる。子どもの夏が頭の中に乗り移る。
ゲーム。陣地に早く入り込んだ方が勝ち。走り回るだけの単純な遊び。そこで何かを気にすることがあっただろうか。こめかみから頬へと流れる汗はとどまることを知らず、それを拭き取るよりも先に走る。一緒に走っていたのは誰だ。
海を求めて自転車をこいだ僕らのエネルギーは、何に置き換えられただろうか。泳ぐ前の夏の儀式。やはり汗。海はまだ遠く、それでもペダルをこぐ足は止まらない。向かっていった先の海はどんな白浜を見せていただろうか。海の色は?波は?水温は?
そこはどんな街だったのだろうか。いつも一緒だった仲間たちの顔も思い出せない。いや、それは夏の歪みの中でいつかは消えてしまうことが決められていた、かりそめの記憶か。
ふと我に返るは大人の記憶。子どもたちは自分の足元でぐるぐると走り回り、歓声を発している。そこにある記憶は、やはり時と共に消えてしまうものなのだろうか。それともその記憶を保存するのが大人の役割か。記憶ばかりが次々に増殖し、欠落は許されず、そこにいる子どもの夏までをも、この頭の中に留めておく。
やがて子どもも自分の元を去りゆく。その際に失われた夏の記憶は、大人である私の中に残される。去って行く子ども、大人になった子どもは自分の夏を記憶し、そしてまた再び子どもの夏を記憶する一生を送る。
夏の連鎖は終わりを知らず。そのリレーにゴールはなく、現れては消える陽炎のように道の先へと続いてゆく。記憶の旅は夏とともにまた再びよみがえる。子どもたちよ、失われる記憶の片隅にでもこの夏を残しておいてはくれまいか。